書評1998年分

1998年5月分

北海道大学大学院博士課程(政治思想史:19世紀フランス政治思想)   

田中 拓道(takujit@juris.hokudai.ac.jp)

 

・佐々木毅「ポスト・ビヘイヴィオラリズムとその後」『国家学会雑誌』第96巻第5・6号.

 わずか27頁の短い論文であるが、今月読んだどの本よりも多くの問題提起を含んだ内容であった。この論文は、1967年以降のアメリカ政治学の中で、行動論批判とそこから生まれた「新しい政治学」の潮流が、その後どのような成果をもたらしたのかを振り返るものである。これらの潮流は、行動論における価値と科学の二分法、その方法論が含意する実践的な保守性を批判し、実践的知識、特に政治参加の重要性を強調する、という点で共通の特徴を有する。

 佐々木は、その代表者としてクリスチャン・ベイ、ジョン・ガネル、ウィリアム・コノリーの三者を取り上げている。ここではガネルの議論に絞って見ておきたい。ガネルは行動論のみならず、方法論を哲学的に議論するメタ理論、解釈学的政治思想史のそれぞれに批判を加える。行動論や経験科学は「所与の事実」を前提するが、理論はむしろ理解・了解・説明にこそ役割を見出さなければならない。また経験論と区別された規範理論は、その区別を受容することによって、乏しい内容となっている。さらにメタ理論や解釈学的思想史は、現代政治の問題に正面から取り組むものではない。これらに対抗する彼の構想は、現代における政治的「行為(action)」を説明し理解するための枠組みを与える、「政治理論」の構築である。

 ガネルに限らず、ポスト・ビヘイヴォラリズムの論者における、経験論/規範論の二元的区別への批判と、新しい政治像や秩序イメージの模索は貴重なものである。ただし、ベイに見られるようなナイーブな議論にとどまらず、方法論的なメタ次元の議論を踏まえた上で、そこから実質的な政治理論をいかに構築するのか、という課題は、いまだ探求の入り口にしかない。本稿を読んで、改めてそのことを認識させられた。

 

・ミッシェル・ワールドロップ( 田中 三彦、遠山 峻征 訳)『複雑系』(新潮社、1996年)

 近年様々な学問領域で話題になっている「複雑系」の概念を提起し、その出発点になった著作である。「複雑系」とは、端的に言えば、単純な要素の組み合わせが、予測不可能な形で作用しあって、非均衡的でありながらある規則性を持ったシステムが生み出されるメカニズムのことである。この本は、この「複雑系」の科学が生まれたサンタフェ研究所の設立経過や、研究者の人物交流を描きながら、「複雑系」の発見に至る過程とその展望を叙述している。

 評者として特に印象に残ったのは次の三点である。第一に、「秩序」と「カオス」の中間に「複雑系」を成り立たせる点の存在することが、シュミレーションによって確認された、ということ(「カオスの縁」)。これは絶対主義と相対主義の間に社会秩序の基盤を模索しようとする今世紀の社会理論の課題に、ヒントを与えている。第二に、「学習」「進化」「適応」は、因果的メカニズムの知識なしに可能であり、その選択は「最適化」ですらなくともよい、ということ。このことは経済学や理性に基づく社会秩序という考えに、根本的な反省をもたらす。第三に、「囚人のディレンマ」について、実験を一回でなく多数回積み重ねて「複雑化」することによって、その「ディレンマ」を解消することができる、という驚くべき指摘。そうすることで、これまでの理論と逆に、「(性格が)よくて、やさしくて、タフで、わかりやすい」人物が常にゲームに勝つようになる、という。

 「複雑系」は、既存の自然科学が前提とする演繹的・要素還元的方法を批判し、複雑な現実を全体として認識する科学を創出しようとする、壮大な試みである。しかしそれがどの程度「説明」たりえているのか、「創発性」は実在するのか「そう見える」だけなのか、主観主義と客観主義のアポリアを抜け出ているのか、など多くの疑問も残る。またこれらは基本的に、コンピューターや人工知能の発展というテクノロジーの発達に追随した認識にすぎないのではないか、という疑問も拭えない。社会認識の道具として、この概念が「使える」ものであるかどうかは、まだ未知の部分が多い。

 

・マキアヴェリ(永井三明訳)「政略論」『世界の名著21 マキアヴェリ』(中央公論社、1979年)。

 70年代以降の政治思想史研究における共和主義(republicanim)的伝統への着目という潮流の中で、マキアヴェリの「政略論(ローマ史論)」は最も重要な位置を占めるものとして、「君主論」以上に着目されてきた。しかしこの本は、「共和主義」という解釈の枠組みには汲み尽くされない豊かな内容を含んでいる。それは「君主論」以上に、政治学的思考の材料の宝庫である、という印象を持った。例えば、抽象的理論に対する実際的判断の優位、政治勢力の対立・競合の政治的効用、宗教の機会主義的利用の主張、など。もちろん様々な矛盾や疑問点も目に付く。マキアヴェリが君主制と共和制のどちらを優れた政体と見なしていたのか、という古典的問題、場所によって人民と君主に対する評価が食い違っていること、「徳」「自由」のとらえ方が一定でないこと、など。多様な解釈を許すという意味でも、何度も読み返すだけの価値のある古典に違いない。

 

北海道大学大学院修士課程(行政学)

象牙の塔の懲りない面々(ペンネーム)(kosuke@juris.houdai.ac.jp

 
・加茂利男、大西仁、石田徹、伊藤恭彦共著『現代政治学』 ( 有斐閣アルマシリーズ)
 

98年3月末に、出版された最新の政治学概説書。関西を中心とした研究者により執筆されたもので、故に科学的政治学の色彩が濃い教科書。従来までの教科書では扱われてこなかった、1980年代以降の政治理論(新制度論、福祉多元主義、新政治経済学、グローバルガバナンス、差異・承認の政治学等)についても、簡潔かつ明瞭に記されている。現代政治分析、比較政治、デモクラシー論を学びたい人の為の入門書ともいえる。図表・コラムも多く大学生が自力で政治学を学ぶための最も有効な教科書といえよう。なお、有斐閣アルマシリーズの本は、教科書としてはどの分野のものもお勧めである。

 
 

北海道大学大学院法学研究科修士課程(西洋政治史)

川嶋 周一(kswith@juris.hokudai.ac.jp
 
・宮部みゆき『火車』(新潮文庫)
 

本書はカード破産を題材にした一種のミステリー小説である。小説としての評価も高いが、それを別にしても、カード破産という現代的な社会問題を視点として、日本人の法観念を見事に描いているように思えてならない。日本において、「社会」と「政府」の相違は一般市民にとっては意味を成さない。社会は「世間」の名の下に個人より価値的に上位に存在するものとして公化されており、同時に政府は世間とは別の論理でアプリオリに個人より上位に存在している。このような状況では法は統治システムにおける強制執行の手段以外の何物でもない、と認識されるようになる。本書においても、カード破産という一種の紛争状態において法が紛争解決の完全ではないが有効な手段であるとは、登場人物は考えなかったのである。このような法に対する認識によってこの登場人物がいかなる運命をたどることになったのかは、実際に本書を手に取って自らの目で確認していただきたい。私はそこに描かれた人生を、フィクションだから、と切り捨てることができない。なぜなら、私も含め、そこで描かれている人物は、みな具体的な事物や具体的な名辞に囲まれて、具体的な欲求に従って生きていっているからである。法はこのような具体性という神が支配する世界に抽象という形を取って現れる。法は何を解決して、何を解決してくれないのか、その一つのケーススタディを本書は描いている。

 

98年6月分

北海道大学法学部大学院修士課程

象牙の塔の懲りない面々(行政学修士2年)

・渡辺治「日本の大国化はなにを目指すのか」岩波ブックレット442

 本書は1997年5月に超党派の議員連盟で発足した憲法見直しの動きや、同年9月の新ガイドライン締結の動きに対して、冷戦が終結し世界の軍縮化と平和の時代が到来した今、なぜこのような動きが台頭しているのかを分析するものである。そして、かような一連の動きを日本が軍事大国化を目論むものと認識し、この理由として日本企業の多国籍化と世界秩序を維持を目論むアメリカの日本に対する軍事的負担要求を挙げている。更にこの様な一連の動きの障壁が憲法と一連の護憲運動の存在であり、憲法の見直しの動きはこれを打破しようと企てるものと指摘する。以上の認識から筆者は90年代改憲の加速的な進行に危機感を覚え、憲法を否定するあらゆる試みに反対する運動を強めることが有効な「闘い」であると力説する。そして最後に憲法の理念を真に生かすために何をなすべきなのかについて提言をする。

 本書は90年代に激変した日本社会を一貫してアメリカ帝国主義、日本帝国主義の分析枠組みから切るもので、故に特定の党派性・イデオローグを強く感じるため読んでいて抵抗したくなる部分がある。しかしかような事で筆者の学問が否定されるものでもなく、特定の枠組みを酷使することで、対象を体系的に分析しようとする学問的姿勢にただただ敬服するばかりである。冷戦の崩壊により既存の価値観が揺らいでいる中で、憲法についても「創憲論」「護憲運動は無意味である」との揺らぎの時流に乗った曖昧な見解が後を絶たない。「軍備で平和は作れなく、護憲が古いという発想自体が古い」と感じる私にとって、依って立つ背景こそ異なれども、筆者の言論は力強いものである。ただ分析に多くのページを割いているため、文末の提言の部分は簡素で弱いと思う。現実の政治が保守で固められている事を考えると彼の政策提言は非常に無力なものに受け取られるおそれがある。「護憲は守るものでなくつくるもの。積極的な護憲を展開する必要性」を思う私にとって、これからの市民運動が取り組むべき課題、運動をより積極的に提言して欲しかった。

 

・田口晃、山口二郎「地方自治土曜講座ブックレット27 比較してみる地方自治」北海道町村会

 北海道町村会が自治体職員・市民向けに行っている地方自治土曜講座の講演録。従来頒布価格が500円だったものが、ナンバー18以降は600円に値上げした。企画担当者に理由を聞いたら、印刷費だけ430円もかかり採算がとれないからだそうだ。(最も在庫がかなりあるため、600円でも全体的としては採算がとれないらしい。先生方がもっと宣伝してくれればいいのにと担当者はぼやいていた。)なお、北大生協で購入が可能。本書は、田口晃「自治体の直接民主政ーヨーロッパの事例から」と山口二郎「比較の中の分権と改革」の2つの講演で構成。

 田口氏は近年我が国で注目を集めている住民投票、自治体の直接民主政についてその歴史的変遷を指摘した上で、1980年代に入ってヨーロッパで再評価されている事を指摘する。特に従来直接民主政に対する評価が低かったアムステルダムや例外的にこのしすてむから存続してきたスイスの例を紹介する。更に「住民投票は公共性を考えない地域エゴ」との批判に対しては、近代国家が形成される過程で中央政府が独占した公共性をもう一度奪い返す、その事に地方自治の意味があり、その中心的な制度が市民投票であると結論づける。

 講演の構成がしっかりしており、直接民主政の歴史的変遷やヨーロッパの制度に付いて大枠がわかるような説明がなされている。ややスイスの直接民主政が分かりにくいがこれは田口氏の説明に問題が分かりにくいのではなく、スイスの制度の複雑さに起因するのだろう。「住民投票は地域エゴ」との批判に対しても、その背後に潜む日本の公私観を分析した上での力強い反論がなされている。自治体の直接民主政を学ぶテキストとしての入門書と言える。

 他方、山口氏の内容イギリスの政治行政とこれを支える文化についての見聞記であり、具体的には小選挙区制と政治文化、スコットランド・ウエールズの住民投票と地方分権、イギリス型行政改革(エージェンシー制度・シチズンチャーター)の3つのテーマで構成されている。権力的な野心を有する若者が日本では官僚を目指すのに対して、イギリスでは政治家を目指す事、しかも権力に対する野心がみなぎり理念を有するため、政権が変わると政策も変わるとし、イギリス政治に羨望の眼差しを送っている。これに対して、日本の政治は政権党内での意思決定が出来ておらず、行革会議は畑違いの寄せ集めでろくな議論も展開できていないとの痛烈な批判を展開し、相変わらずの熱血政治学者ぶりをはっきしている。

 我が国の政治行政を考える上でイギリスを理念系とすることが適切なのかどうか分からない。あくまで見聞記なので、物足りなさを感じる。故に山口氏による今回での理論書・研究書の出版を強く求めたい。ただいつも思うのだが、山口氏の著作は政治家や行政官という大人の世界しか出てこない。幼少期からの政治教育を受けた結果が、今の日英の政治行政の結果だと私は思うのだが、この点、彼はどう考えているのだろうか、知りたいところである。 以上。

 

佐藤浩章(さとうひろあき)

北海道大学大学院教育学研究科博士課程(教育制度論・高校教育論)

/大学の研究室/ tel.011-716-2111 内線2601 e-mail hiro@edu.hokudai.ac.jp

 

・竹内敏晴『日本語のレッスン』講談社現代新書 1998/4 660円

 多くの時間をかけて多くの言葉を交わしたにも関わらず、相手とのコミュニケーションが全く成立していないと感じることがある。一方で、一瞬の言葉のやりとりが、深いコミュニケーションを感じさせることがある。いったい、その違いはどこにあるのか。竹内敏晴に言わせれば、それは「語る主体」がいるかいないかということになる。

 竹内氏は長年、演劇の指導をする中で、「ことば」というものを徹底的に考え続けてきた人物である。とりわけ、日常生活の中で使用される制度的な言葉である「第二の言語」ではなく、自分を表現し、自分になるために必要な「第一の言葉」の重要性を指摘し続けている。(この区別はメルロ・ポンティからのものである。)本書では、現代人が忘れてしまった「第一の言語」を取り戻すための「日本語のレッスン」が何度も繰り返される。レッスンで取り上げられるのは、「チューリップ」「まっかだな」「もしもしかめよ」「春が来た」「ぞうさん」など、私たちが小さい頃、学校や家でよく歌った童謡である。竹内氏は、歌詞の意味を丁寧に解釈することで、台詞のひとことひとことについて、「誰に向けられたものなのか」「最も伝えたいことは何なのか」を執拗なまでに問うていく。彼のレッスンを通すと、私たちがいかにこれらの唄を皮相的に歌ってきたのかがわかる。竹内氏は言う。「『春が来た』などというカンタンなことばは、ただ口を開ければ発音できる、と、いわゆる健常者はいつのまにか思いこんでいるようだ。なんのイメージも感動もなく、ただの音声を発することができる、ということが、なぜ可能なのか、私には不思議なのだ。イメージも、それをだれかに伝えたいという衝迫もなくて、どうしてことばを発することができるのだろう。」こうした記述は、自身が幼少時から聴覚に障害を持ち、人生の途中からことばを取り戻していったという経験を持つ竹内氏だからこそ説得力を持つ。(本書に関心をもたれたならば、竹内氏のライフヒストリーが書かれている『ことばが劈かれるとき』(ちくま文庫)をお勧めしたい。)

 「人間関係本」が流行っている今、他者とのコミュニケーションで悩んでいる現代人は多い。「自分の声のエコーの内に閉じこめられ」、「自閉的というか、ナルシスティック」になっている人たちには必読の書ではないだろうか。

 

・尾木直樹・宮台真司『学校を救済せよ』学陽書房 1998/3 1500円

 本書は、ブルセラ女子高生を世に広めたことで有名な社会学者の宮台真司と、元中学教師で主に生徒指導に関する著作の多い教育評論家の尾木直樹による対談形式の教育評論集である。

 「まえがき」に、「この本は、今日の学校が果たしている『マイナスの諸機能』を徹底的に明らかにし、『具体的な代替案』を次々に提案していくことを目的にしている」とあるように、本書はそれぞれのテーマにつき、「現状分析」と「変革案の提示」が行われる。扱われているテーマは、「神戸小学生殺害事件」「仮想現実」「体罰事件」「いじめ」「不登校」「内申書」「髪型と制服」「援助交際」「覚醒剤」「校内暴力」「親」「教師」である。ただし、主張の中心部分は宮台が述べており、尾木は宮台の主張を具体例で補うという役割分担になっている。よって以下では、宮台の主張をフォローする。

 現状分析は、既存の教育言説にありがりな教育規範論に陥ることなく、豊富なデータや宮台ならではのフィールドワークに基づいてなされている。こうしてテーマごとに、子どもに対する学校や父母の対応のまずさ(子どもの現実とのズレ)が批判される。その中心は「子どもに知識や価値を伝達する」ことに主眼を置く既存の教育の在り方である。

 では、何が教育の目的として相応しいのか?宮台を批判する人たちは「宮台は批判ばかりで、展望を語らない」と言うが、本書で宮台は、「かつてのように共同体を頼れない以上、個人が個人として、他人を承認し承認される文化が要求されている。こうした文化を根付かせ、保つこと」、これこそが「『成熟社会』における教育の目的」であると言う。子どもたちは、こうして「コミュニケーションを通じた承認の授受」を学習することで、「コミュニケーションの快楽を通じた肯定感」や「他人との社会的交流を通じた自尊心」、「社会性(=社会の『中』を生きること)と尊厳(=自分が自分であること)との緊密な結びつき」を獲得することができる。

 こうした新しい教育の目的を達成するために宮台が提唱するのが、「自己決定能力養成プログラム」である。具体的には「個人カリキュラム」「ホームベース(溜まり場)づくり」「学区の自由化」「教師選択制」である。これらは「単に自由がいいから」ということではなく、「失敗を自分の責任で引き受けて、自分で改善するシステム」という積極的な意味があるとされる。

 評者は、宮台の現状分析については概ね納得できたが、提唱について疑問に思うのは、「自己決定能力」と「コミュニケーションの文化を根付かせること」との関係である。宮台は、現代社会では「共同体」は崩壊してしまい、自明の事柄はなくなっている。だからそういう「終わりなき日常」を生きる知恵である「自己決定能力」を養成しなければならないと言う。しかしそこから、どのようにして「コミュニケーション」を基盤とした社会性や共同性を形成していくのか。教育現場において、「生徒の個人主義」「教師の個人主義」「父母の個人主義」が問題になり、「子育て・教育」をいかに協同化していくかが問われている今日、「自己決定能力」がそうした課題とどう絡むのかがポイントになるだろう。

 

・ジョー・ネイサン/大沼安史訳『チャータースクール』一光社 1997/2 1400円

 「チャーター」とは、特許状、または特認の許可状の意である。つまり「チャータースクール」とは、明文化された契約書(チャーター)を、教育委員会や大学から付与された学校のことである。96年現在で、全米で約300のチャータースクールが誕生、25の州でチャータースクール法が成立している。チャータースクールは、レーガン元大統領が「危機に立つ国家」を発表して以来続くアメリカ教育改革の一つの到達点として注目されている新しい学校像である。

 チャータースクールを作るのは、教師・父母・地域住民である。まず彼ら/彼女らが、学校創設や既存学校の転換についての案を教育委員会などに提出し、契約を結ぶ。契約の中では、子どもたちの学力向上に学校としてどのような形で責任を持つのかが具体的に明記されていなければならない。内容が教育委員会や大学に認められれば、チャーターを得ることができる。チャーターを得ると、その学校は公立校と見なされ、補助金をもらうことができる。しかし公立学校の運営規則の大半を守る必要はない。契約通り学力を向上させることができれば、契約は更新される。しかしできなければ認可者によって閉校の措置がとられる。つまりここでは、教育の「結果責任」(accountability)が問われれるのである。チャータースクールは、選択制の学校であり、強制入学はさせられることはない。

 この学校から読みとることができるのは、「新しい教育の公共性」の捉え方である。従来の教育の公共性は、公平さにこだわるあまり画一性や安定性を重視し、差異や競争は忌むべきものとされてきた。全国どこに行っても変わらない日本の中学校や高校のカリキュラム・建築形態・時間・学級定数.しかしチャータースクールの事例は,差異や競争は公共性と矛盾しないとされている。さらに官僚や議員を通さずに,直接市民から出されたアイデアを公共の施設として認めている。もちろんその性格はしっかりとチェックされる.チャータースクールの議論は、長らく「公平性」「安定性」「行政の責任」を追求してきた日本の教育運動に、大きく見直しを迫るものとして注目されよう。訳も平易で読みやすい。

 

北海道大学大学院博士課程(政治思想史:19世紀フランス政治思想)

田中拓道(takujit@juris.hokudai.ac.jp

 

・D.フリスビー、D.セイヤー(大鐘武訳)『社会とは何か』(恒星社厚生閣、1993年)

 リーデルが『市民社会の概念史』で描いたように、19世紀半ばまでに、既存の「市民社会」概念は解体の過程を辿った。その後「社会」はいかなる領域として認識されるようになったのか。本書は、Key Idea Seriesの一分冊として出版された“Society”の翻訳であるが、19世紀以降の「社会」に対するとらえ方をまとめ、現代に残された課題と展望とを適切に示した好著である。

 内容上の特徴と、そこから触発された点を二点挙げておく。第一は、「社会」を客観的実在ととらえる見方(デュルケム)、相互行為の集積ととらえる見方(ジンメル、ウェーバー、シュッツ)のみならず(ここまでは常識的)、両者を統合するものとして、「言語ゲーム」としての「社会」、というとらえ方(ウィンチ、批判理論)を強調する点。ここで示された、言語構造と社会構造をパラレルにとらえ、言語をメタ制度ととらえ、理想的言語ゲームを解釈学的に援用することで社会の批判理論へとつなげる、という考え方は、メタ次元の方法論/実証・政策論というどちらかに振れやすい政治理論のあり方に、異なる方向性へのヒントを与えている。第二は、抽象的な「社会」概念の登場それ自体が、「市民社会」の具体的発展という歴史状況に依拠したものだったのではないか、という指摘。マルクスを論じる後半の叙述は、このような問題意識を下敷きにしている。この指摘は、「市民社会」から「社会」への概念史的連続性を示唆すると同時に、20世紀に入って「社会」概念がそれ自体として「問題化」されなくなったことに、時代状況の反映が見出せることを示唆している。

 本書は性格上、このような多様な論点が示唆されるにとどまり、展開はされていない。「市民社会」から「社会」へ、「社会」それ自体が自明なものとして「問題化」されなくなる現代へ、という過程において、何が見失われ、それはいかなる社会状況と関連していたのか。本書をうけてこれらの点を探求していく必要がある。

  

・シャンタル・ムフ(千葉眞ほか訳)『政治的なるものの復権』(岩波書店、1998年)

 本書は近年着目されている「ラディカル・デモクラシー」論の主導者の一人ムフの主著である。それは現代政治理論の布置と到達点をよく示している。

 ムフによると、政治理論の想定する社会とは、実体的な統一ではなく多様な差異から成る集合であり、脱中心化された主体によって構成されるものである。そこでは差異、多元性が考慮されなければならない。また普遍主義的で抽象的な正義論に対しては、具体的な伝統や文化に依拠した思慮(phronesis)や判断力、共通感覚を導入した理論が対置される。ムフにとって政治理論とは、「所与の伝統に帰属する重要な述語」の解釈を通じて「新たな用語法を創出する行為」に他ならない。

 ここでは言語論、解釈学、共和主義、コミュニタリアニズム、フェミニズム、ポストモダニズムといった様々な潮流を部分的に採り入れつつ、既存のマルクス主義やリベラリズムに対抗して民主主義理論を構築しようとする現代理論の到達点が示されている。また一つの特色は、シュミットに依拠することによって、「政治的なるもの」─合意・原理・中立性に解消されない諸理念の果てしない競合や対立状態─を擁護していることである。

 さて、以上のような達成を省みた場合、驚くべきことは、これだけ多様な理論を押さえているにもかかわらず、実質的なあるべき社会像については、何も展開されていない、ということである。そこでは既存の理論に対する批判が展開され、多元性・差異・判断・実践・闘争といったスローガンが繰り返される。しかし彼女の言うような「新しい政治的述語」を、「あるべき社会イメージ」の構想の中で位置づけ、展開しているようには思われない。例えばそこにはロールズに対抗しうるだけの社会像が見えず、実質的にはどれほどの差異がもたらされるのか、不明なままである。現代政治理論の到達点は、同時にその貧しさをも明らかにしていると言えるのではないだろうか。

 

瀬田 宏治郎(東京大学 文学部社会学専修課程 研究生、setti@pop12.odn.ne.jp

 

・永井 均『これがニーチェだ』(1998年、講談社現代新書1401)

 前作、『<子ども>のための哲学』の中で著者は、道徳を守ること自体に疑問を抱かない倫理学は、あたかも神を信じること自体に疑問を抱かない神学のようであり奇妙である、と述べ、この事を初めて問題にしたニーチェへ賛辞を送った。今回はそのニーチェに関する著作である。本書は一応入門書の形態をとってはいるが、一般教養としてのニーチェを知るための本としてはあまり役に立たないだろう。ここで展開されているのは、著者が自分の問題意識に引き寄せて読み取った限りでのニーチェである。だから「入門」というタイトルにはなっていない。

 著者によれば、一般にニーチェの特徴として紹介される「力への意志」説は、哲学説としてはレベルが低いものであって、特に注目するほどのものでもない。著者が価値あるものとみなしているのは、群棲動物としての人類に対する「超人」としてのニーチェである。実はこの視点は、著者がこれまで述べてきた独在する<私>と重なる。ここから道徳性に関する様々な問題の考察はすすむ。著者によれば、ニーチェの問題系は相対立する三つの位相(これを「空間」と呼んでいる)から成り立っている。この図式を用いた分析により、これまで難解とされてきた様々な概念の意味が語られる。

 著者自身も本書について、「偉大な芸術作品に感動した一ファンの、一つの無骨な賛辞の呈し方なのだと受け取ってもらいたい」、と語っている。正統的なニーチェ解釈とはいっていない。しかし、道徳に関して疑問を持った人には興味が持てる議論を展開しているし、ニーチェを魅力的な存在として描けてもいると思う。実際評者も、ニーチェを読み進めていきたい気持ちを強く持った。

 

・ポール・ファイヤアーベント『哲学、女、歌、そして・・・――ファイヤアーベント自伝』(村上陽一郎 訳、1997年(原著 1995年)、産業図書)

 本書は、「認識論的アナーキズム」を標榜し、「何でも構わない(anything goes)」のスローガンで知られる科学哲学者のポール・ファイヤアーベントの自伝である。この種の伝記を読んでいつも感じるのは主人公が持つエネルギーなのだが、著者はその中でも飛びぬけてあふれんばかりのエネルギーを感じさせる。禁欲的な学者ではなく、生きることすべてに情熱的に振る舞ったことがわかる。

 彼自身の弁によれば、自分は常にはったりをかます演技者であったという。時には読んでもいない著作について朗々と述べることもあったそうだ。学者であると同時にプロのオペラ歌手・俳優でもあった彼にとっては、生きる営みそのものが芝居がかったものだったのかもしれない。だがそうであったとしても、大きな足跡を残したことには変わりない。学者の一般的な類型から外れているからこそ、新しい視点を持ち込めたのだろう。

 ただ残念な点は文章の流れが不安定なところである。死の直前まで書き続けていたからかもしれない。それに、端々に彼の思想は表明されているが、断片的である。だから、K.ポパーの自伝と違って、その思想入門として読んでも不満が残るであろう。だが、その背景となるものは強く感じられるものとなっている。

 

岡崎晴輝 1968年生 国際基督教大学大学院行政学研究科博士後期課程 政治理論 g979024@yamata.icu.ac.jp

 

・斎藤喜博『授業』(国土社、1990年[1963年])

 著者は、群馬県の「島小」の校長として、独自の「学校づくり」をすすめ、戦後教育に多大の影響を与えた教育者。本書は、国土社の「現代教育101選」シリーズの冒頭を飾るに相応しい力作。これを読むと、多くの「授業」が「授業」とは呼べないことを痛感させられる。授業とは、教師が一定の解釈を提示し、それを生徒が覚えるというのではない。生徒がある解釈を出す。教師はその解釈を「否定」し、更に高い解釈へと高めていく。そのなかから、教師も生徒も「変わる」というのである。私は、この方法には、単に教育の方法としてだけではなく、研究の方法としても真剣に受けとめるべきものがあるように思う。

 

・German: KAMPF UM ANERKENNUNG (Frankfurt am Main: Suhrkamp Verlag, 1992).English: Axel Honneth, THE STRUGGLE FOR RECOGNITION (Cambridge, Mass. :The MITPress, 1996).

 現代批判理論の旗手、アクセル・ホネット(フランクフルト大学哲学教授)の代表作。ハーバーマスのコミュニケーション理論を承認論的に転回させる野心作。読者は、ホルクハイマーとアドルノの『啓蒙の弁証法』に劣らない、感動をおぼえるであろう。ホネットは、初期ヘーゲルとG.H.ミードを手がかりに、アイデンティティーの条件として「承認」がなければならないとし、それを「愛」「法=権利」「連帯」へと分類している。そして、そうした「承認」が侵害された場合に「承認をめぐる闘争」が起こることを論じている。ホネットの「政治」概念は、「利益の共同追求」という功利主義的な「政治」概念とは異質な「政治」概念である。私は「輸入学問」は好きではないが、この書は別。ホネットは、もっと現代政治理論に吸収されてよい。

 

川島周一 北海道大学大学院法学研究科修士課程 西洋政治史 kswith@juris.hokudai.ac.jp

 

・「フランス現代史」渡邊啓貴著 「物語 ドイツの歴史」阿部 謹也著(ともに中公新書)

 両書は今年に相次いで中公新書から出版された概説的な歴史書である。出版時に前後して、ユーロ導入をめぐるEUの会議が行われ、タイムリーにこのEUの中核国の歴史解説を知ることが出来るわけだ。とはいえ、フランス現代史の方が、第二次世界大戦後の政治史に終始しているのに対し、ドイツの歴史は、中世以前から現代までの政治史・社会文化史を幅広くフォローしている。

 まず前者について。そもそもフランス現代史(第二次大戦以降)の概説書は日本においても少ない。値段も手ごろで割合容易に入手できるフランス現代史の書物と言えば「現代西ヨーロッパ政治史」(有斐閣)と、山川の各国現代史シリーズの「フランス現代史」ぐらいである。だが本書は新書ながら、戦後フランス政治史を極めて細かく叙述することに成功している。それでいて必要以上に専門的に、つまり学術論文みたいな読みにくさがない。新書という性格上必要な読めば分かる易しい叙述と、専門的な知識の体得も可能な、バランスのとれた著作である。各章の扉に年表を配置するレイアウトも便利だ。そう言えば、こういう構成をとる本は少ないが、巻末に全体の年表を載せられるより読みやすいことに気付いた。(ドイツの歴史は巻末に年表)最後に、実際の政治状況が混迷を極めた第四共和制同様、この時期の記述は他の部分に比べて一貫性がない。ドゴールのインパクトが大きすぎるせいか、やはり第四共和制の扱いは、フランス史のお客様状態である。いやこれは細かい批判だ。全体的に見れば、本書は極めて良質の書物であることは疑いない。

 次に後者について。著者はヨーロッパ中世史の大家で、中世から現代に続く「ドイツ的なるもの」の解明に焦点を合わせている。そのキーワードは「アジール」(ないしはアジール権)だ。この用語を知ったのは、私個人は、「もののけ姫」の文脈である。そう、森としてのアジールとかなんとか、あの頃ミョーに流行った新しい中世史像のディスコースである。もちろん、中世史といえば、ヨーロッパは阿部謹也、日本は網野という図式は10年以上前からそうだったし、二人の言及する中世史像は地域を越えて共通するものがある。閑話休題。しかしこのアジールを使っての歴史像の形成は消化不良に終わっている感が否めない。なぜならば、アジール(庇護と訳されうる)は社会と個人、もしくは聖と俗の関係で為されるものである。しかし近代以降、ドイツ史に即せばビスマルクによるドイツ統一後、国家間関係と個人、すなわち「亡命」に取って代る。勿論アジールと亡命は性格を異にする。だが国際法が整備された近現代の亡命制度と、中世のアジール制度がどのように相違するのか、著者は明確な叙述を行っていない。ついでに言うと、ビスマルク以後の記述は、それ以前と比べて政治史の記述が大半を占め、しかも教科書的な、極めて淡白な叙述に終わっている。中世の記述が豊かな知識に基づいた魅力ある文章であるのとは大違いだ。本当に同じ人が書いたのかとさえ思ってしまう。もちろん、近現代史は著者には専門でなく、その通史の執筆は大変な労苦であったことは想像に難くない。とはいえ、本書の冒頭にアジールを通してドイツ的なるものを探求すると言っている以上、近現代政治史の通史的叙述はバッサリ切って、アジールが近代国際法の亡命制度とどう絡み、ドイツ史の具体的事例の中でどのように扱われているのかに、焦点を絞った方が良かったのではないだろうか。いや、阿部氏を目の前にしたらこんなこと言えないだろうけど。

 とはいえ、ドイツ史では、例えばフランス史よりも、中世からの歴史的連続性が高い。ドイツ中世史が近現代史にどう繋がっているかは、大変興味深いトピックである。フランス革命史にそれほど通じなくて戦後フランス史はある程度理解可能である。しかし、神聖ローマ帝国からの邦州性や、ヨーロッパにおけるドイツの位置付けを知らなければ、戦後(西)ドイツ史を理解する妨げとなる。という訳で、改訂版に期待します(生意気言ってすいません。)(了)

 

98年7月分

北海道大学大学院法学研究科博士課程、西洋政治思想史:19世紀フランス政治思想

田中 拓道(takujit@juris.hokudai.ac.jp

 

・榊東行『三本の矢』(早川書房、1998年)

 「三本の矢」とは政財官の一体化した「日本というシステム」を表している。本書は、大蔵大臣の失言をきっかけとした金融不安、それに続く金融システムの再編、この過程を背後で操る謎の勢力の解明、という形で展開される推理小説である。現役の官僚が、大蔵省内部や永田町の意思決定過程をリアルに描いたことで大きな話題になっている。

 特色は次の二点にあるだろう。第一に、現役官僚でなければ到底書けないような、大蔵内部の組織・派閥・行動様式・思考法が随所に描かれ、彼らの側から見た「世界」像を知りうるという点である。特に彼らの勉強量と真剣な議論の有り様を知ることは、研究者を目指す人間にとって刺激になる。

 第二に、最も大きな特徴は、推理小説という形を借りて、著者なりに数理モデルを中心とした最新の政治学・経済学の潮流を整理し、現実に当てはめ、その有効性と問題とを提示しようと試みている点である。大蔵省における銀行局と主計局の対立や、その背後にある東大経済学部と法学部の派閥対立は、同時に金融と財政をめぐる思考法の違いに結びつけられる。さらにそれは、留学先であるアメリカの中西部系大学と東海岸系大学との対立、すなわちシカゴ学派とネオ・ケインズ学派(MIT、ハーバードなど)との思想的対立に結びつけられる。本書の圧巻は、これらの対立が、「市場」を出発点とする経済学と、「民主主義」への不信を出発点とする政治学との発想の対立へと深められ、両者のモデルは「どちらが現実を説明し予測しうるか」ではなく「人々がどちらの正しさを信じるのか」という『意思』によって、同じ程度に実現される可能性がある、という論点にまで踏み込まれる点である。その実現可能性のシュミレーションには、最新の議論である「複雑系」の科学が用いられる。

 実際に政策立案する側から見た場合、現在の学問はどれほど現実認識に有効か。それを用いることで、現代の政治経済状況はどこまでとらえられ、何がとらえられないのか。今学問が取り組むべき課題とは何なのか。本書は、このような大まかな知の見取り図を示し、実務の側から学問の世界へ挑戦状を送りつけたものと見ることができる。それに対して応えることは、学問の世界に携わるものの義務であろう。特に「官僚」の立場にとってではなく、「生活世界の住人」の側にとって有効な、動的な政治現象の全体像を認識するための枠組みを提示することは、現代政治理論の大きな課題でなければならない。

 

98年8月分

北海道大学大学院博士課程(政治思想史:19世紀フランス政治思想)

田中拓道(takujit@juris.hokudai.ac.jp

 

・ジョルジュ・ルフェーブル(高橋他訳)『1789年─フランス革命序論』(岩波文庫、1998年)

 ルフェーブルは、今世紀の社会史を中心とした「新しい歴史学」の端緒をもたらしたとされる歴史学者である。本書は、この社会史的観点をはじめとして、経済史・政治史的観点、さらに人物の気質論までを駆使して、きわめて明快にフランス革命の勃発過程を論じている。

 内容上の特徴として、特に次の二点が挙げられる。第一に、フランス革命を「アリストクラートの革命」「ブルジョアの革命」「民衆の革命」「農民の革命」という四つの社会階層における自律的かつ重層的な革命の総体、ととらえている点である。これによって、それまでのマルクス主義的な、あるいはエリート主義的な歴史観に比べて、著しく豊かな歴史像を描くことに成功している。

 第二に、これらの社会階層間に革命が次々と伝播していく過程を、その社会階層の「集合心性(mentalite)」の形成に着目して説明することである。例えばそれまで受動的で非政治的であった農民階層を革命へと駆り立てたのは、何よりも「アリストクラートの陰謀」という非合理的なイメージであったことが、説得的に論じられている。このことは、政治的行為を合理的・思想的要因や経済的要因のみならず、偶然的で・非合理的な要因や象徴作用によっても説明する道を開いている。

 以上の他に読後の「印象」を特に二点挙げてみたい。まず歴史学に携わる者にとって、歴史を「物語る」能力がいかに根本的な能力であるかが示されている、ということである。またこの書は1939年に書かれたという時代状況を背景として、抑制の取れた学術的記述と、筆者の規範的信条の告白とが、例外的に高いレベルで組合わさっているという意味でも、古典と呼ばれるにふさわしいと思われた。

 最後に疑問点を一つ。筆者は「集合心性」の形成と民衆の政治的行為との関わりを考察する道を開いた。しかし「集合心性」の動き自体を、学問的にとらえ説明することは、いかにして可能なのだろうか。「下から」の動きを強調すればするほど、それは「理論化」からこぼれ落ちる要素に着目することを意味しているのではないか。

 

岡崎晴輝 国際基督教大学大学院行政学研究科博士後期課程 政治理論 g979024@yamata.icu.ac.jp

 

・German: Helmut Dubiel, WISSENSCHAFTSORGANISATION UND POLITISCHE ERFAHRUNG (Frankfurt am Main: Suhrkamp Verlag, 1978).English: Helmut Dubiel, THEORY AND POLITICS (Cambridge, Mass.: The MIT Press, 1985).

 フランクフルト学派研究の古典の一つ。ジェイの『弁証法的想像力』は、詳細な記述で手堅いけれども、面白味には欠ける。このドゥビールの教授資格試験論文は、その反対。ジェイの半分くらいの分量しかないが、実に面白い。第一部は、『啓蒙の弁証法』へといたる「初期批判理論」の歩みを三期に分け(1930-1937: 唯物論、1937-1940: 批判理論、1940-1945: 道具的理性批判)、それを「政治経験」(労働運動、ソビエト連邦、ファシズム)から説明している。第二部は、所長ホルクハイマーが「認識上も組織上も優位に立っていた」ことを実証している。こうしたテーゼだけでなく、その手法も面白い。たとえば、フランクフルト学派内部の相互引用の統計をとり、ホルクハイマーの特別な位置を描きだすことを試みている。こういう「アングロ・サクソン的」手法をフランクフルト学派研究に適用していることに言い訳をしているあたりは、微笑ましい。こんな名著に日本語訳がなく、一部のフランクフルト学派研究者だけにしか読まれていないのは、もったいない。

 

・武田常夫『斎藤喜博抄』(筑摩書房、1989年)。

 群馬県「島小」の教師であった故・武田常夫氏が「師」斎藤喜博氏の思い出を綴ったエッセイ集。気軽に読めるものだが、いろいろ考えさせる。たとえば、修身科がなくなり道徳教育はどうなっているのか、という父親の質問に答える斎藤先生。「きょうの子どもたちの授業を見ましたか。オトギリソウとはまったくちがった世界でおたがいに教えあい、おたがいの知恵を分ちあっていたでしょう。学習の中に、自分だけよければいいというのとはちがう世界をもちこんでいたでしょう。そういうことは別に協力ということの大事さや、他人のものから学ぶことのだいじさなどいわなくても、先生がそういう指導をしているのです。それは立派な修身です。授業をそういう面からみるのもいいでしょうね」(152頁)。武田氏の自己変革の記録である『真の授業者をめざして』(国土社)も名著。

 

98年9月-11月 留学手続きの関係で中断

 

98年12月分

北海道大学大学院博士課程(政治思想史:19世紀フランス政治思想)   

田中 拓道(takujit@juris.hokudai.ac.jp)

 

・Donzelot Jacque, L'invention du social(『社会的なるものの発明』), Fayard, 1984.

 68年の5月革命を経たフランスの社会科学においては、既存の機能主義的な社会理論やアルチュセール的なマルクス主義に対し、社会問題を異なる枠組みからとらえようとする理論の構築が目指された。ドンズロも、明らかにそのような「経済」や「国家」から「社会」や「生活の質」そのものへと視点を転回させようとする問題意識を共有している。彼はこの観点から、本書において、1848年から現在に至る「社会」概念を巡る思想史を鮮やかにまとめ、その問題点を描き出すことに成功している。フランスでは既に、この分野での「古典」とも称される位置を占めるものである。

 ドンズロによれば、共和制下で「社会問題」が争点化されるのは1848年の2月革命においてである。その後の労働権問題、デュルケムを始めとした「連帯solidarite」概念の創出と展開、社会権問題、社会保険の発明などは、ルソー的共和制において忘却された中間領域の「社会問題」を巡る対応、そこにおける国家と社会、経済と社会の相克の歴史として解釈される。さらに労働における「規格化」(テイラーイズム)を経て、福祉国家の成立によってこれに一定の解決が図られる。しかし60年代以降の福祉国家の危機は、「社会」に代わって国家が問題解決の主体となることの限界を露呈したものであった。左翼からの消費社会批判、新しい社会運動、クロジェらの「社会を変える」運動は、このような文脈において現れたものである。これに対しドンズロは、社会の個別領域の自律性を強調しつつ、「権力」概念や「政治」概念の共和主義的な再定義の必要性を提唱する(例えばle politique とla politiqueの区別、権力のnegociationモデルなど)。

 19世紀から現代に至る主要な政治的動きを「社会」概念を軸に明快に整理した本書は、その後の「社会」概念を巡る思想史的研究潮流の端緒ともなったという点においても、意義は大きい。一方で、幅広い論点を詰め込んで解釈しているため、個々の点については強引さも感じられる。例えば国家権力の制限という点から自由主義や連帯思想を整理し、主として福祉国家の文脈から消費社会批判をとらえているという点。総じてこれらは、ドンズロ自身が国家に対する「社会」の自律性を強調するという問題意識にこだわるあまり、フランス思想史の特徴でもある国家と社会の関係の複雑性を単純化しすぎているように思われる。この意味で彼の議論の意義は、個々の点の解釈にあるよりも、これら19世紀以降の思想史を巡る諸論点が、そのまま現代の問題に対する対応へと通じていることを示した点にあると言えるだろう。

 

佐藤浩章(Hiroaki Satou)

北海道大学大学院教育学研究科博士課程2年(教育制度論/高校教育論)

e-mail hiro@edu.hokudai.ac.jp

 

・『やればできる学校革命・夢をはぐくむ教育実践・』武藤義男 井田勝興 長澤悟 日本評論社1998(1700円)

 地方教育委員会の動きが活発になっている。町独自で35人学級制(国の基準は現在40人)を採用している長野県の小海町教育委員会は,それを認めない県教委と対立して全国的に注目された。本書が取り上げている福島県三春町教委も町ぐるみで,オープン・スクール(教室の壁などを取り払い,生徒たちが自由に動ける学校建築様式のこと)を導入するなどの教育改革に取り組んでいる元気な地方教育委員会の一つである。本書は,三春町における教育改革の経緯と現状を記録したものである。著者は,この教育改革の中心人物である元教育長の武藤義男氏,町内の中学校長の井田勝興氏,学校建築に関わった東大教授である。評者は98年7月に武藤氏の自宅にてヒアリング調査を行い,町内の岩江中学校にも二度訪問していることもありとりわけ印象深い本であった。

 オープン・スペースや総合学習,モジュラー・スケジューリング(25分の授業時間を組み合わせて長短様々な授業時間を作り出す方法)といった教育改革の内容も興味深いが,こうした改革を町全体で取り組み始めるまでのプロセスが興味深い。

 全国的に学校の荒廃状況が広まった1980年代に教育長を勤めた武藤氏は,「新しい市民意識,主体的な共同体意識の形成こそが,21世紀を迎える三春町の最大の課題」だと考え,教育改革をスタートさせる。子ども,住民,教師との連日の討論,広報活動。こうした公開討論の中から,住民の間に教育を学校だけに任せてはいけない,自分たちの学校を自分たちで何とかしなければという意識が育っていくプロセスは感動的である。

 本書を読んで,教育を地域で取り組む課題にするためには,適性な規模があるということを痛感した。現在の都道府県教育委員会はあまりに広大な地域を管轄している。教育の意思形成の単位をより小さなものに線引きし直す必要があると思った。

 これまで教育委員会はとかく評判が悪かった。「文部省のいいなりになっている」「教育委員会は考え方が古い,柔軟性に欠ける」と。「制度が変わらなければ教育は変わらない」というのが、これまでの教育界のステレオタイプであった。武藤教育長は繰り返す。「やればできる」と。経済界のみならず、中央教育審議会までもが、教育の地方分権化を強く主張する中で、本書の果たす役割は大きい。

 

・『人間関係の技法・精神科医のアドバイス・』木戸幸聖 岩波書店 2000円

 評者は今日の日本社会で起こるトラブルの多くは「コミュニケーションスキルの不足」に起因すると日頃感じている。人間の異質性を前提としたアメリカ社会において、コミュニケーションスキルは重要視されており,自分の感情を上手に表現し,かつ他者への配慮も忘れない方法が確立されている。同質性を前提とする日本では歴史的にコミュニケーションスキルという概念そのものが薄弱だったように思われる。本書は精神科医である木戸氏が,日々の臨床の中で感じた「歪んだコミュニケーション」の処方策について書いたエッセイである。学術書ではないが,現代日本におけるコミュニケーションスキル論として興味深く読んだ。

 本書では普段何気なくやり過ごす行為について,コミュニケーションの視点から解釈が加えられる。本書で取り上げられる行為は「挨拶する」「言葉を交わす」「聴く」「噂をする」「励ます」「感謝を表す」「褒める」「愚痴をいう」「無視する」「相手を見る」といった何気ない行為であり,改めて客観的にこれらの意味を考える機会を与えられる。例えば挨拶は以下のように定義されている。「『わたしは,このように,あなたを認めました』というメッセージを送ると,それに対して『そのようにわたしを認めているあなたを,わたしは,このように認めます』とメッセージを返す。それが挨拶である」と。こうして行為の意味がわかると,挨拶の重要性を再認識する。学校で教師が「年長者には挨拶をしなさい」と生徒に強制するよりも,よほど説得力のある説明である。

 本書を通読して思うのは,こうした話は以前であれば,自分の身の回りにいる大人から聞くことができたのではないかということである。こうした人間関係本が売れるということは,それだけ人間関係が希薄化しているということなのだ。しかし嘆いても仕方がない。解決法の一つは、現在自閉症の患者などに対して行われている「コミュニケーションスキル」の学習を,学校教育の中で生徒全員に行うことである。